今回は、浅草をご紹介しましょう。浅草は、地域風土の文化を彩る歴史が息づく街、あるいは芸人の聖地ともいわれています。また、永井荷風や樋口一葉といった文豪に愛され、江戸情緒に溢れた酉の市、三社祭、羽子板市や針供養などの伝統行事でも知られています。四季折々、いつ訪れてもその時々の顔をつ、季節毎に楽しめる浅草をご紹介したいと思います。
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数多い近代文学との所縁
数多い近代文学との所縁浅草といえば“雷門”です。浅草寺の山門で正しくは“風雷神門”といいます。天慶5年(942年)に建てられましたが、その後幾度も火災に遭い、寛永12年(1635年)徳川家光によって再建された際に風神と雷神を安置、「風雷神門」を略して雷門と呼ぶようになったそうです。江戸時代の川柳や浮世絵の題材とされてから、その名が全国に浸透しました。現在では浅草のランドマークであり、日本を象徴する風景には必ずといっていいほど登場しています。
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浅草が、なぜ日本の象徴としてまた遠方からも愛される独特の街なのか、その答は、江戸時代の歴史が息づく大衆文化の薫る街だからだといえましょう。五千円札の肖像になった樋口一葉が暮らした町、“たけくらべ”の舞台になったのは竜泉寺町です。現在ここには、一葉自筆の「草稿」「書簡」等を集めた資料館「一葉記念館」が建っています。
また、随筆集「日和下駄」に「私は目的なく散歩する中おのずから此の寺の多い町の方へとのみ日和下駄を曳摺って行く」とあるように、永井荷風はこの浅草をこよなく愛した文豪の一人でした。浅草には、日本の近代文学史に残る名作との所縁が数多く残されています。
芸人の聖地・六区
“浅草六区”という言葉をご存知でしょうか。浅草地区は、江戸時代に新吉原遊郭が浅草に移されたことがきっかけで栄えましたが、明治維新後、新政府により浅草寺境内が都市公園に指定された際、六つに分割された区画の中で一番賑やか地域がこの六区でした。多くの演劇場・芝居小屋が立ち並ぶ娯楽街となり、東京庶民の娯楽街として繁盛したことから浅草=六区といわれるようになったのです。戦後は、松竹歌劇団の本拠地としてロック座・フランス座などのストリップ興行も加わり、芸能の殿堂・一大拠点として、渥美清や北野タケシといった数々の有名芸能人を生み出しました。また、三十を超える劇場で興行師、俳優、芸人などの争奪戦が絶えず激しく行われており、昨日の喜劇小屋が今日は安来節となり、明日は映画館になるといったように目まぐるしい流転を続けています。こうした現象は、民衆娯楽に鋭敏な経営戦略の表れでもあり、流行の発信拠点である六区の賑わいが、周辺の仲見世通りに影響を与えてきたと思われます。浅草寺周辺を散策すると、建て替えられた中に当時の面影が見え隠れする。これが浅草特有の魅力なのだと感じます。
こちらのコラムを掲載している会報誌がWEBカタログでご覧いただけます。
健康と環境に優しく" Winter 2008 VOL.06"
住まいを考える
住まいを育てる気持ちで
暮らしの豊かさを
街並み周遊・浅草
江戸時代の歴史が息づき
地域文化の薫る街
![街並み周遊 浅草エリア 会報誌[SHELLZE]Winter 2008 VOL.06より](/column/images/h2_shellze_column_asakusa.jpg)



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